23・4歳の頃だった、毎週水曜日、市職員勤務をしていたが勤めを終えると、JPに飛び乗って乗って明石海峡に面する垂水海岸際の山崎美也師匠宅へ向かった、玄関を入り、2階へ上がる、
2室あって、海岸に面した部屋が稽古場だった、美也師は既にわたしが訪れるのを待って、この日の稽古曲を予習なさっている、いつものことだった、
わたしは、階段を上がった直ぐの隣室で、美也先生の事前稽古が終わるのを静かに待つ、
すでに稽古は始まっているのだった、師匠美也師の一人稽古が終わるまでわたしは、襖を隔てた隣室に一人座って聴いていた、一度もわたしは師の独り稽古の途中で襖を開けたことは無かった、
ある夏の午後だった、夕刻前の時刻だったと思う、師匠宅から海岸の砂浜まではほんの数歩の距離なのだが、ここに海水浴客らの簡易小屋が建てられていた、
この小屋から、にぎやかな音楽が流れてきて、いつもは稽古の邪魔になり海岸に面したガラス戸を二重に占めて稽古するのだが、この日は、開け放たれていて、美也師匠は海岸から流れ来る音楽を独りで聴いておられた、
「あなた、今日は、コレを聴きましょう・・」と美也先生、
「すばらしいです、ナント言う曲でしょうね・・」
賑やかな曲だった、当時わたしは地歌(箏。三弦の曲)に夢中で、ビートルズの曲などにはまったく興味を持たなかった、ビートルズに曲だと美也師はおっしゃって、わたしに、しっかり聴きましょうと勧められた・・・
今にして思う、わしゃ、あの時、未だ二十歳半ばの若者だった、視野が滅茶苦茶狭かった、
わしゃ、勉強不足だった、美也師はわたしを本気でお叱りになっとったような気がする・・・
それでも少しは、当時のことだが、わたしは自分の視野の狭さに気付き始めていて、で、地歌の稽古に明け暮れているようでは人生を誤るような気がし始めていた、このまま尺八の稽古を続けていたらダメだと思うようになり、稽古を中断し、以来、勤めを定年退職するまで尺八社会から離れたのだった、
が、離れて過ごした定年までの長い時間、わしゃ、ナァ~ンもしていない、
魚釣りに興じ、安月給はたいて高価なフレジャーボートを購入し、沖へ走り出ては魚釣りに興じ、あげくが愛艇「はまちどり」(28ftの外洋航行可能な艇)を駆って、日本列島を大きく就航するなどのムチャ遊びを楽しんだりしただけ、
再度、尺八を手にアレコレ吹いて楽しむようになったのは、65歳頃からだ、そして今がある、今、80歳だから、再度尺八生活に入り込むようになって、未だ15年ほどである、
ただし、60歳定年退職後、少しづつ尺八を触る機会が増えてきてはいたが、本気で尺八とは向き合ったわけではない、本気になり始めたのはヤッパ65歳ころからで、それも徐々にってことで、未だにこの流れの中である、
今朝は、フト、かつて若かりし日の、山崎美也師宅での地歌稽古のことを思い出し、不意に、ビートルズに突き当たった、
「イマジン」が好きだ、ジョンレノンは1940生まれだ、わたしもこの年の生まれ、
彼は40歳で亡くなった、わたしは彼の倍の今、80歳だ、間抜けな能足らずのクソ・ズズイ、恥ずかしいたらアリャシナイ・・・
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