「さむしろ」(そまつなムシロ)
幕末頃大阪で活躍された音楽家に、在原句当(ありはらこうとう)という音楽家が居られて「さむしろ」という名の地歌を作曲された、極めて趣深い曲ですぜ、
わたし、未だ二十過ぎたころから尺八吹いていますがね、この曲も、ナニも判らずただガムシャラに吹いていたみたい・・・無茶苦茶もエエとこだ・・・
あぁ~、わしゃ、長々と生きて来た・・・
ナァ~ンも判らぬまま、ただ、ボンヤリ生きて今がある、
こんな曲を、ナァ~ンも判らぬまま、ガムシャラに吹いていた頃があったのだよな、
最近は、もうこのような地歌を吹くことも無くなったが・・・
その昔、中納言在原業平が、時の天皇のご機嫌を損じ、須磨に蟄居する羽目になって、そこで地元村長の娘・姉妹を側に置き寵愛したことがあったそうな、
3年ほどで許されて都へ戻ったが、姉妹を連れては戻らなかった、
業平は二人を「松風」・「村雨」と名付けて寵愛していたのだが、なんと、当時・在原業平が蟄居していた場所に、今も松風・村雨堂が残っていましてね、スバラシイじゃないですか!!! いつ頃建てられたものだろう???
わたし、来週あたり、気が向いたときに軽四で出掛けてみようかと思っとる、
そのつもりで、今日も、この曲の出だし部分だけでもシッカリ稽古しようと思っとる、お堂の前で吹こうっと思って・・、
なんと、広大無辺な目標でしょうが!!!
姉妹・「松風」・「村雨」をお慰めしてきましょう、ズズイではダメかな???
去年(こぞ)の秋、散りし梢(こずゑ)は紅葉(もみぢ)して、今はた峯は有明(ありあけ)の、月日(つきひ)ばかりを数えても、まつに甲斐なき村時雨(むらしぐれ)。時しも分(わ)かずふるからに、色も褪せつついつしかに、我袖(わがそで)のみや変るらん。鳴く音(ね)をそへてきりぎりす、夜半(よは)の枕に告げ渡る。嵐の末の鐘の声、結ばぬ夢も覚めやらで、ただ偲ばるる昔なりけり、(「さむしろ」歌詞)
コメント