あのころは
夜10時就寝、朝4時起床、室内は常時空調機作動、室外10度、
今月12月はさしたる用事もなく、日々静かに過ごせる、
年明けの伽耶院境内での単独野外吹奏へ向けて体力保持にまい進しようと思っとる、
とにかく、毎日、自宅周辺を歩き回るつもり、
家に閉じこもっていてはダメ、1歩外へ出て、少し遠くまで歩く、
あぁ~、散歩に出る際は、杖を握り持って出る、
団地区域を少し出ると一面は稲畑、三木市は酒米の産地でもある、この畑の畝を歩むのが好きだ、
畝を、一歩・一歩、足の踏み場を手にした杖で確かめながら歩く、
畑はなだらかな丘状地に階段状に造られていて、知らぬ間に小山に登り降りすることになり、整備されたアスファルト道を散歩するに比べると、野趣豊かで楽しい、
が、なぜか皆さんアスファルト路を散歩なさる、確かに歩きやすいがオモロナイ、
散歩するに絶好の自然豊かな畑の畝(ウネ)があるじゃないか、
つい数週間前のことだった、
わが家の前の路脇に蛇が居た、動かなかった、すでに死んでいた、
この地へわが家を建てて住み始めた頃は、未だ、以前の果樹園の趣が残っていて、我が屋の庭にも野鳥や蛇が平気で入ってきた、
わが家・二階の天裏で変な音がして天井裏を確かたら、大きな蛇が居て肝っ玉が潰れたことがある、
わたしが散歩の際、常に手に杖を握り持っのは、畑の畝の”蛇”対策だ、
畝を歩むと蛇を踏みつけたりするかも・・・
で、手にした杖で、チョイと、歩前をツツキつつ歩むのである、
わが家は、わたしが未だ幼き頃、神戸市須磨区にあった、
先の大東亜戦争(真珠湾攻撃から始まった第二次世界大戦)末期、この家をB29が投下した焼夷弾で破壊され、山陰の半農半漁の村へ親戚を頼って戦争疎開し、その地でわたしは幼い頃を過ごしている、
母が親戚から山上の農地を借り受け、蔬菜作りに精を出したが、山上の畑までの路が難儀だった、蛇が居る道だった、
わたしは、未だ幼子だったが、常に手に棒を持たされ、母が歩む前を歩かされていた、
手にした棒で蛇を追い払い、母が歩める路を造っるのが役目だっだ、
棒て突いても去らぬ蛇を、手で掴んで投げた記憶がある、
まったく怖いと思ったことはなかった、
が、今はダメ、
蛇を手で積むなんてとんでもない・・・
が、散歩のときは、未だに手に棒を持ちたい、で、杖をもっての散歩である、
あぁ~~、
わしゃ、もう単に杖ついてボソボソ歩む老いぼれズジイでしかない、
あのころは 蛇も掴んだ 畑畔
今や母は 天国の路・・・ 波平
母が96歳で旅立って早や15年、
この翌年の春・四月末、ワシャ単身・愛艇「はまちどり」を駆って、日本列島大外回り1周航海に挑戦したのだった、
播磨灘の母港をオッカナビックリで出港、ある種・不安不安のなかだった、
コレを気付かって、友艇・アキどんが自艇で小豆島まで随行してくれた、
あぁ~、この艇友・アキドンも既に亡く、わしゃ、寂しくてかなわん⤵⤵⤵
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