毎日新聞・2006年1月5日東京夕刊に、養老孟司氏と橋本治氏の新春対談が掲載されている。題して「団塊を知らない子供たちへ」。
毎日新聞の企画担当者は、当初このお二人へ「団塊の世代について話していただけますか」と、注文をつけたようだ。
で、お二人は、ヨッシャ!と、延々2時間、息つく間も無く話し込んだということである。
掲載文は5分もあれば読める量。わたし、自分で読む時間を計ったら3分だった。
と、なると、丸々2時間-3分=117分 …117分は原稿にされなかったってことになる。ちなみに、対談の題も、
「団塊の世代について話していただけますか」⇒「団塊を知らない子供たちへ」
と、方向転換。
丸々2時間も熱気を込めて話された内容を、たった5分足らずの原稿にまとめる作業があったわけだ。
圧縮がきつすぎる。そのせいか掲載記事は決して読みやすいものではない。
いくら行間を読めと言ったって限度がある。行間の読み方に読者ごとの差があったらどうする?結果、対談されたお二人の意に添わぬ理解につながる恐れもあろうものを。
でも、企画子は、一般読者が読み違えないように、より正しくお二人の対談内容を理解し、要点をドラマチックに原稿化したのだ…、と、われわれ読者は理解して記事を読むことになる。
対談内容はおそらく原稿をはるかに超えた幅広いものだったろう。この幅広い対談から、企画に添った部分が抜き出されたのである。多少の色合いを添えて。で、対談の題が「…子供たちへ」となったわけだ。
内田樹先生は、毎日新聞夕刊でこの記事をお読みになって、
「『人のいい』内田さんたちの世代」と、題するエッセイをご自分のブログに掲載された。
新聞の記事中に内田先生にふれた部分があったのを受けてのブログ掲載である。
内田先生は、先生なりの深読みをされている。おそらくこれが正しい読み方であろう。
わたしは、新聞夕刊記事と内田ブログを並べ読んで、自分の理解の方向を矯正し“おう、そういうことか!”と、おもしろがって読む。
いくつかある要点の中から、キーワードをひとつふたつ取り出してみよう。
内田ブログから、「原始的経験」を取り出す。
新聞・新春対談から、「自分の手、自分の体で何かをやる」「バカになれたら、いろんなことがやれる…」を取り出す。
「原始的経験」を語るなかで、内田先生は、
何をやっても、何を考えても、すでに誰かの後塵を追うだけのことにしかならん…と…、思ってしまう、いわゆる原始の興奮を知らないままズルズル大人になってゆくことの恐ろしさ、あやうさにふれている。
新聞対談での「自分の手で…云々」からは、
とにかく自分の手で、何かを触ってやってみることの意義についてふれている。
これらのキーワードを合算すると、
⇒最近の若い人は、かっこうよく生きすぎる。下手に甘んじて、最初の思いつきを大切に育て、稽古し続けるってことが必要だ、と、読める。若い人には愛嬌って武器もあるじゃないか、なぜそれを捨てるのかって読める。
これって、実は、わたしの勝手読みである。
自分がまだ随分歳若くて、自分のことを叱られているような気がする。
新聞対談や、内田先生が、光って見える。
手取り足取り教わっているような感覚がある。
ふと思う。
わたし、もう若い人じゃなかった。今年誕生日が来たら66歳。団塊の世代は、わたしより、およそ10歳も年下の方々のことである。
諸先生方よ!そうきつく物申されるな、
ワッシャ、いまだに列島周航の思いつきを実行しようと、資金不足の中、悶々としておる。
ガラにもなく尺八の稽古に精を出し、十六分音符の早い指使いがどうしても出来ないのを、なんとかならんか練習中なのよ。ぜったいに上手にならんような気がするが…。
じゃが…、
これもまた考えようによっては年甲斐のないことだ。
歳相応に心得るべきことが他にありそうなものを…、
わたし、さっぱりそのことを知らない。