種と仕掛け
またまた内田樹先生のうわさ話になりますが、今回の「現代中国論打ち上げ」はいわゆる牽強付会(けんきょうふかい・こじつけの意)の類でしょうね。でも、たのしいですなぁ。先生にかかったら、白が黒になり、黒が白になる。なにごとでも自由自在に論断なさる。先生の著述を、もし、表面的にしか、読み取ることができなかったら、なんじゃこれってなるかもしれない。なんじゃこれって、思えたら、まだしも救いがあるけれど、ほんにそのとおりだと真っ正直に読み取ると、これが難儀なことになる。もう救いようがありません。
先生の話術というか、論述とかのものには、種と仕掛けがたっぷり用意してあって、これに挑戦しつつ読み解くってことがおもしろい。大きく分けて2つの意図から書かれている。
ひとつは、この話術の論理展開をご自分で楽しもうとの意図でかかれている。先生には“白を黒といい、黒を白という”、この話術のなかへ読者を誘い込み、ご自身が面白がろうってところがある。
二つ目は、この話術・筆法をもって、なかなか語り尽し難いある想念を反射的に映じ出そうとの意からなされることがある。
このたびの「現代中国論打ち上げ」は、後者の意から試みられた秀逸な一文だ。オモロイ、よく出来ている。
先生は、レヴィナスの研究家でいらっしゃる。難解なこの手の思想家を自由自在に読み解くお方である。で、時に、この難解な思想家たちの真似をなさる。このたびは、彼らの論述法をちょっと借用し、骨格をかるくいなした形で援用し「現代中国論打ち上げ」を試みられたってこと。
このあたりのことは、レヴィナスのことをご存知なければわかりにくいかもわからん。早い話が、レヴィナスの論文は、禅問答のような語り口で書かれており、読者に、丁寧にわかりやすく書こうって気がぜんぜん無い文章だってこと。
だが、解る人には解る。解らん人には解らん、と、そういう気持ちで書かれた文章は、わかる人の側からすれば、余分なことが書かれていない分、すっごく端的で、わかりやすい親切な著述である。この手法を、このたび、あえて先生は取り入れられた。
“中国のことをよく知っている人より、むしろなぁ~んも知らない人の方が、真の中国をより良く見据えることが出来るのだ”って述べてあるわけだ。読み進んでゆくと、なるほどそういうことになりそうだとなる。
で、読者はもう一度原点に戻る必要がある。なぁ~んも知らなくてもある程度は理解できるのだ。それなら、わたしが、すでに中国の現状をいささかでも現に知っていたとしたら、ひょっとして更によく理解し得るのではないか、と、ここへ戻りたい。だって、先生の講義を受けて、なぁ~んも知らなかった現代中国を見る目を、眼力を得たのだ。その目を使いたくなるわけだ。で、中国の現状を見に行ってみようという気になる。機会を得て中国へ行く、いろいろ見聞を広めて帰国する。
…と、帰国して後、先生の「現代中国論打ち上げ」に出会って、自分が中国の現状をよく知っている人の側に分類されていることを発見する…。
…ねっ! いま、時系列を少しイジッテ、ことの次第を書きましたけれど、言わんとする焦点はここにありますでしょう。おもしろいじゃないですか。
でもねぇ~、先生の仕込んだ種と仕掛けは、ほんとうはまだ別にある。“知る”・“理解する”ってことの意味のことだ。ここにどうやら焦点があるらしい。思想ってのはしょせん方法でありクセである。視線の向く方向と言った方がよいかな。先生は、中国の現状を説明し尽くそうなんて、はなから考えているわけじゃない。そんなことはどっちでもエエわけだ。先生は、「あなた、ちょっとアッチの方も見てご覧」と、変な方向を指差して笑っている。その方向に何があるか?なぁ~んも無いのじゃないか。でも、先生にリードされてアッチの方を向いてみる、ここが大切。これが出来る者と、出来ぬものとでは、物を観る目に天地の差がある。わたし、このたびの先生の論述にはひどく感激した。
わたし、先生の講義が聴きたいけれど、100分で千円。1分が10円。もったいないとは思わない。だけど、交通費やなんやかや足し込んだら年金の外側の話しみたい。
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