ヌヌッ、貨幣!
現世の醜さに対向し、シャバ社会に順応することを拒み、自己存在を全うしたいと思なら、比叡山に篭り千日回峰修行でもしてみますか。
歩き回るのが嫌なら、じっと壁へ向かって面壁8年って方法もある。
いずれにしても、自分に何らかの苦痛を与え、その苦痛に耐えること、モガキ苦しむことで、エネルギーを使う。結果、苦痛を介して自分を見つめる。
内田樹先生の言によれば、
この苦痛を実感すること、これがある種の労働として、昨今の若者等に価値化されているということだ。先生は、これを、“不快という貨幣”という言葉で喝破されている。
不快は貨幣と同価であり、不快に耐えることは稼ぐに似て、ある種の労働になっている…とか。
怖いですねぇ~。
でも、最近になって、この傾向が顕著になったという観方には、わたし、いささか異議がある。
冒頭に述べたように、大昔から、人生に真っ向から立ち向かおうとした者らの多くが執った道のひとつがこれだった。
お釈迦様だとて自らに断食や辛い作務を課し、「命」の本源を極めようとしたのだった。彼の場合は、菩提樹の下でミルクを飲んでハッと我に返ったのだったが…。
現代社会でも、東南アジアの仏教国タイやビルマでは若者たちが一時期は出家の世界に身を投じ、苦の中で人生を考える機会を持つようだ。
よくわからんが、戦前の日本では、徴兵制度がある種この場を提供していたようでもある。こういう社会的に認知された場が、今の日本社会には無くなった。人間形成のために有用な場が無くなって、若者等は自然発生的にニート化した。閉じこもり症候群と名付けられて思索の一時期を病気扱いされるようになった。
…って、こういうことかも知れませんなぁ~。
パソコンは有用です。これなくしては、これからの社会は成り立たないでしょう。
だがしかし、パソコンは割り切れる世界です。摩訶不思議なことはパソコンの外の世界です。人間の持つ感情や感動や発心などは、パソコンで割り切れるような世界じゃない。パソコン外の世界だ。
ITゲーム機の素早い操作能力なんか関係ない。やたらドッスン・ドッスンと興奮リズムをキザムだけが音楽じゃない。
わけはわからんが、夜空を仰いで星の輝きに感動したり、大海原へ出て波のまにまに身をゆだねることなどが本物のような気がする。手前勝手なことを言ってごめんね。だが、こういう場に身を置けば、いやでも、命のことを思うし、知らず知らずに神妙になっている。
でも、昨今の夜空には星が無い。豪華観光船で沖へ出たとて何が波にまにまにであるものか。一足飛びに飛行機でハワイへ行ったって。なにが自然を満喫なんぞであるものか。…と、これもまた、わたしの勝手な思いかな?
小子化で今後人口が減るそうだ。だが、人口はもう充分に増えすぎているのだ。内、何割かが、ニートしても、閉じこもっても、かまわんじゃないか。変な不作為を、不満分子のやからを、肯定しようってわけじゃない。できれば、社会的に認知された思索の場の創設こそが望ましい。その場が、オームやライブドアなどのまやかし金権教じゃどうしようもない。困ったものですなぁ。
あぁ、少年法を 改正(?)しようってことが、今日の閣議で決まったらしい。先ほどお昼のニュースでそう報じていた。
内田先生のブログは、めったやたらオモロイや!
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