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2006年10月

2006年10月30日 (月)

キンノリどん

200607111704 200607111706 今朝の日経新聞最終ページ文化欄に、「江戸前アサクサノリ復活」・金萬智男氏が登場した。

わたしは氏のことを失礼ながら親しみを込めて“キンノリどん”と呼ばせてもらっている。

氏こそは、盤州干潟の番人すなわち東京湾の番人、すなわちすなわち大自然と人間とのなりわいをヨ~ク知る人、現代社会になくてはならぬお方である。

氏の応援団は日増しに増えている。“まな出版企画”の中嶋満氏もその一人、メーリングサイトFishml主催者・“琵琶湖オオナマズ”こと家辺敏雄氏も最有力メンバーの一人、…で、Fishml関係者は概ね“キンノリどん”の応援者だ。わたしもその端くれ。

今朝、キンノリどんから貰ったアサクサノリを熱々ご飯にのせて食べながら新聞を見ていた…。

と、キンノリどんが日経朝刊にドーンと出ていた。

「ウハ~、キンノリどんが出とる!」

「このお海苔の人でしょう」

「そうや!世の中にこんなエライお方は他にないってお方だ」とわたし。

わたし、今年4月~8月にかけての「日本列島魚釣り周航」の旅で、盤州干潟のキンノリどんを訪ねたのだった。艇友bどんがたまたま東京出張中で、彼も飛び入りで駆けつけたのだった。氏が主催する里海の会のログコテージでお仲間等と一杯やった。コテージの軒下にかつての東京湾のアオギスつりのキャタツを立てかけ、全員が、それによじ上ってコテージの屋根へ伝い上がり、屋根上から干潟を眺めながらビールを呑んだ。

「波平さん、ここから見える風景が東京湾の源風景じゃないかと俺ら思っとる」と、キンノリどん。

氏の見識もさることながら、氏のリーダーシップには脱帽だ。このお方があるかぎり東京湾は安心だ。ってことは、日本の里海は守り得るのじゃないかって気がする。

前述“まな出版企画 主筆中嶋満氏は季刊「里海」を創刊した。この中、特集その1が、このキンノリどんのアサクサノリである。

キンノリどんのサイトを紹介する、

http://www.kinnori.net/

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2006年10月29日 (日)

分別力

情報ってのは、知りたい側の知りたい程度により、個々に値段がつけられていて、金を払わないと得ることはできん。

悪乗りするヤツが居て、○×のことを知ってくれるなら、あなたが知りたい情報をタダで、或いはタダ同然でさし上げましょうという。コマーシャルがそれだ。

新聞では、広告欄が、俺が主役って感じで巾こいているし、テレビでは細切れにしつこく観たくもないコマーシャルが流れる。

今や、新聞・テレビは、神聖なる情報伝達の手段としてより、下世話な広告・コマーシャル周知用媒体としての存在が中心だ。新聞・テレビから得る情報はひょっとしたら知っていた方が得かもしれぬ商品情報の羅列以外のなにものでもなくなりつつある。

商品宣伝販売こそが主目的であって、それら商品情報の多さこそが、あたかも情報ってことの真の意味であるかのような世界が展開されている。

「かくかくのことがありました」という情報が報ぜられたとする。

「へぇ~そんなことがあったの、知らんかったなぁ~、それで○×△のようなことが行われたのだったか」と納得したり、あるいは先行きを読む手段に使ったりする…としようか。

が、しかし、すでに貴方は汚染されている。

その情報の内には知らず知らずの間に、☆★の商品情報がセット化され、刷り込まれている。貴方は早晩☆★を買うことになる。

昨今は、だから、神聖な情報と悪乗り商品購買勧奨との、分別力が問われている。

要するに、まずはジット我慢して衝動買いをしないことが重要だ。

自動車保険や、生命保険や、産地直送味覚のあれこれなどが、

「今すぐお電話を…、今すぐなら○◎もお付けして、△□▽円!」などと煽りたてる。

実に美味しそうなカニだったりする。欲しいと思う。が、ガマンする。

わたし、我慢バッカしていて…、

この世であのカニを食ってないのは自分だけのようなミジメな気持ちになりつつある。

このことがシャクだから、かくは、書き散らして、好ましくない昨今の情報化社会に一大警笛を鳴らすのである。

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2006年10月27日 (金)

この時期の感謝

かみさんが不在中に、あるところから、「今年とれたうちの畑の新米です、どうぞ召し上がってください」と、玄米30数キロをいただいた。

トレトレの新米である。きっと美味しいに違いないと思った。

たくさんある、感謝、感謝、

わが家だけでいただくのはもったいないから、友人・知人におすそ分けしよう。

かみさんの帰りを待たず、わたし、気前良く配りました。

その数日後かみさんが帰って来て…、

「パッパ、食べてみたの?」って問う。

「玄米や、精米するのがめんどうやから、まだ食っとらん」とわたし。

「あら~、どうやろ?」とかみさん。不安げである。

わが家は、小さな家庭用精米器を持っている。かみさんは早速精米して炊いた。

古米だった。

完全な古米じゃない、少しは新米が混ぜてあって、それで“新米”を標榜したってことらしい。

だが、わたしの味覚からは、古古米に古米がまぜてあるような味だった。

昨年の今頃は、その米には昨年の新米が少しまぜてあったに違いない。が、今となっては、古古米に古米ってことになる。

わたし、友人・知人らに、古古米と古米の混ざった玄米を、今年とれたばかりの新米だとウソを言って差し上げたことになる。とんでもない間違いをしてしまった。

信用失墜だ。責任者出て来い!!

そのお百姓さんの悪意からとは思わない。セコイこっちゃとは思うが、感謝の気持ちは失わない。わしゃ人間がデケトル。お米をもらって、それが古米だったからって、嬉しくないなんてことはない。

なにしろ、わざわざお持ちいただいて、ありがたいことであった。

感謝しつつ、これから日々その古古米をいただくことになる。

だけど吹っ切れない気持ちがないことはない。

要は、

わたしの方が不注意だったってことだろうと自分を責める。

なぜって、要するにトコロテンであったのだ。順繰りである。この時期のお百姓さんが言う“新米”は要注意だってことを、よォ~く知っていなけりゃならなかった。

ほんなことも知らんで、おぬしゃ~何年この世に生きとるのや!

現に、かみさんは、このことあるを知っていた。新米がとれたら、去年の、一昨年の、残り米がトコロテン式に余り出て、その処分に、あちこちへさばくってことが当然あって不思議ではないってことを。

ましてやわが家は貧乏である。配る先のリストに載っていて不思議はないってことを。

だがなぁ~、わが家で食うだけなら構わないよ。

しかし、わたし、友人・知人等に、今年の新米やと言ってお贈りしたのである。

どう釈明したものか。よわった。困る。どないしょ!!

30数キロ食い尽くすまで、毎食毎に、変な感謝せなならん。

あぁ~勘弁して欲しい!! 感謝、感謝…、

北朝鮮でニセ百ドル紙幣造っているのだってね。

さもありなんって感じだね。欲しいかって? ホンナモン欲しないわい!

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2006年10月26日 (木)

タダで観たい

報道の自由ってやつは、観る自由につながってこそ価値があるように思うが、大きな関門があって、某チャンネルなどは、ゼニを払わないと観られない仕組になっとる。これってどういうことなんや?

老人なら、ほぼ誰もが、時間を持て余しているわけで、だからオモロイテレビ番組がその日あるか無いかで、生甲斐が左右されるわけで…、だのにWOWOWが有料でしか観られなくて、アァ~シャクダ!!頭に来た!

この際、視聴契約を交わそうかと思ったりするが、そのうちに65歳以上には無料で観せてあげるってことになるのではないかと思うから、ジット我慢しておるが、皆さまいかがお過ごしですか?

映画・動画など等をタダで配信するサイトもあるけれど、映画を見せるつもりなんかなくて、広告・コマ~シャルばっか細切れに観せるから、わっしゃ頭に来た来た来た!!!

未だに艇の修理が終わらなくて、わたし、ストレス症候群発病の危機に立っておるよ。

タケチテェ~!!

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知価社会 2

八尾煎餅どんが、老人ホームの人材についてコメントなさったから言うのだけれど、フィリッピンの方の受け入れならOKで、これがもし北朝鮮からの難民だったら、諸兄らどうしますか? いやですか?

僕かぁ受け入れます。お世話になる。

だって、自分でどうしようもなくなってしまったら、どうしようもないやないですか。

で、思うわけですよ、

国や人種や宗教や価値観やいろいろな違いがありますよ。

でも、これからは、徐々に、これらの垣根を越えた付き合いが必要になる。

この時代の流れはもう止めようがないでしょう。

ようよう考えれば、

この時代の体現者として、今やその先駆として、老人ホームへ入居する老人等が表舞台へ出てきたってことじゃないかな。

なんと、やりがいのある仕事じゃないですか。

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2006年10月25日 (水)

六か国

6か国は、ロシア・アメリカ・中国・韓国・北朝鮮・日本ですよね。

酒でいうと、

ウオッカ・バーボン・老酒・マッコリ・??・清酒(最近は焼酎かな)

??北朝鮮ってのは何を呑んどるの?

あれっ?ワインが無いねぇ~、

愛飲する酒が違うからは、生活習慣からすべて諸事万端にいたるまで、違うことだらけってことじゃないか。

味覚が違う、感性が違う、美的センスが違う、文化が、文明が違う…、ほんま? …冬のソナタだけは別…、

価値観を同じくするとか、話し合えば分かり合えるってのは、危険極まりないと思うけど、どうでしょうかねぇ~。

モーさんのかみさんが、マレーシア育ちのお方で料理がとてもお上手だってことになっとる。

ほんまかどうか、行って食ってみようじゃないかってんで、近々押しかけることになった。

ハンパじゃないよ、なにせ淡路島五色浜にある自宅の一部を改造して「梅花」マレーシア料理(079-935-1012)ってのを始めている。すっげぇ評判になって、淡路島が客の重みで海へ沈みこむほどやって来て、先日なんぞは明石海峡大橋がその来客々の車列渋滞でたわんだって聞いている。

「モーさんよ、酒は吟味して出さなあかんど!変なもん呑ますなよ!そう、ワインの上等がエエ、ワイのかみさんは上等のワインがお好みや」

と凄んでおいた。だが、これって冗談、冗談でっせ!

わが家のかみさんは、ながらく発泡酒だったのが最近は第三のビールになっとる。わたしは安物焼酎。ひたすら安きに、安きに走っとる。

が、モーさんはそんなことは知らんから、ビックリしてワインの調達に走ったらしい。

昨日彼は、

「アカン、わし、ワイングラスだけ買うてきた、あとは持ってきてくれ」という。

「なんのこっちゃ?」とわたし、

「ワインがどうやこうや言うとったやないか!」とモーさん。

彼って随分練れたズズイだと思っておったが、ワインと聞いて、知らん世界に放り込まれたような不安なキモチになったみたい。

かく言うわたしだって、ワインだけは苦手。たまたま上物に出会ったりしたら、懸命に味わおうとするのだが、酒を呑む雰囲気から離れるばかりで、ついぞ美味さにシビレタことなんか一度も無い。

??北朝鮮ってのは何を呑んどるのやろ??

まさかワインじゃあるまいな!

あぁ~オッソロシイ!

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2006年10月24日 (火)

知価社会 ?

来年(2007年)から団塊世代の大量定年退職がはじまるってんで世情騒がしいことである。

騒ぎには二つの流れがある。

1.大量退職に伴う社会全体の生産性ダウンを危惧する立場から。

2.退職した団塊世代の者たちのその後の身の処し方を按ずる立場から。

1⇒は、大丈夫じゃないか、風通しがよくなって、むしろ生産性向上にプラスじゃないか。

2⇒は、難儀だと思うな。わたし自身今実感しつつあるからようわかる。

  で、ここを更に2つにわけて考える。

世間に広く言われているのは、

       趣味に生きる……遊び派(ボランティア・勉強・研究など含む)

       新たなビジネスに取り組む……ベンチャービジネス派(稼ごうというお方たち)

文芸春秋11月号で、堺屋太一氏が「団塊の世代・幸福への1千日計画」というのを書いている。このなかで氏は「好きなことをするのが幸せだ」という価値観こそが、これからの社会の指導的理念になるだろうって予言している。氏は“知価社会”って言葉を使う。“満足”ってのは、好きなことをするってことだろうと言っている。

ホンナコト、言われんでも分かっとる!!

でもねぇ~、わたし、プレプレ団塊世代だけれど、

ヨォ~ク考えれば考えるほど、“俺っていったい何が好きなの?”…か、これがようわからん。

そのくせ、昼過ぎになると酒が呑みたくなり、凪の日は海へ出たくなり。時に尺八を手にしてフカプカやっている自分を見つけたりする。

キット、酒と、釣りと、尺八が、好きなのだろうと思う。

間違っても、わっしゃ、ビジネス派じゃないよなぁ~。

金は欲しいですよ、欲しいけど、お小遣いが欲しいのであって、サイフに入りきらんほどの金が欲しいわけじゃない。

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2006年10月23日 (月)

イモの畝

え~と、今朝は味噌汁が出るかなと思っていたけど出なかった。

わたしは例によって早起きだが、かみさんは遅起き。疲れが出始めているのだろうか、いつまで待っても起きてこない。わたし、しかたがないから味噌汁はあきらめ、独りでタマゴ掛けご飯を食った。メン露垂らしてかき回す例のレシピ。

飼い犬のダイとショウが、浮かぬ顔でポケェ~としておる。

わたしは、彼らの視線のなか、自分ひとり朝めし食って、コップを水道栓の下へ差しだし、その水でいつもの常備薬を3粒呑んだ。

なんかわびしいなぁ~。外は雨。濡れともない秋雨が降っとります。

9時過ぎにかみさんが起きて、ダイとショウは朝ごはんにありついた。

ダイは喜んで食べた。が、ショウは食べない。

ショウは、上等の焼きブタと目玉焼きと、ケーキパンを、それぞれ少しずつナイフ・フォークで食べた。ほんまかいな? いや、ホンマ・ホンマ。少しずつ取り分けてかみさんが口元まで持ってゆくと食べたってこと。

わたし、忙しくって忙しくって、どうしようもないから、これから風呂でも沸かせて入ろうかと思う。それとも昼寝にしようか。隠居ってのは昼間から風呂に入ったり昼寝したりする仕事があるから、外になぁ~ンもする時間が無いや。

あぁ、かみさんは、家の内外をウロウロ・ウロウロしておる。留守の間の彼女のテリトリーの点検に忙しいみたい。時々どこからかわたしを呼ぶ声がする。そのつど、アリャこんどは何が見つかったかな!と、わたし気になってしょうがないや。さいぜんはサツマイモのことで叱られた。畑の水遣りだけど、サツマイモの畝には水は遣ってはいけなかったようだ。知らんかったなぁ~。

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2006年10月22日 (日)

明朝は味噌汁

わたしは今思えばこの2週間番茶を呑まなかった。

食事時なにか呑みたければ缶ビールを呑んでいた。

と、つい先ほど、かみさんが紅茶を入れてくれた。

あたたかい馴染みの味はエエもんだ。

なにせ湯も沸かさないのだから、味噌汁などは造る術もわからんし食わんかった。だが片手鍋で即席ラーメンはたびたび湯がき食った。

タマゴ焼きは造った。飼い犬のショウがかみさん不在のストレスで食事が出来なくなり、タマゴ焼きを造って与えた。わたしの得意レシピである。が、わたしは食っていない。

ご飯はたびたび炊いた。

2合では足らず、3合になり、4号になり、ついに約5合炊きにした。たびたび炊くのは面倒である。炊飯器が音をあげて度々吹きコボレ、そのつど布巾でコボレを拭いていたが、帰って来たかみさんに鋭く変事を覚られてしまった。

電子レンジも、料理台も、部屋内のあれもこれも…、そのありようが気に入らぬようである。彼女は帰宅以来ずっと、わたしを叱り飛ばし続けている。

時にパッと声が変わって、楽しげに話すのは、旅先でのことや、買ってきた品々を手にした時である。わたしはやれ助かったと調子をあわせ気を休める。

かみさんは2週間の中国研修旅行に行っていた。昨夜帰った。

わたしは、彼女の帰国の日を読み間違えており、まだ中国に居るものとばかり思っていたら、帰ってきた。

帰って来て、内心ホッとして、今、彼女の興奮の嵐が過ぎるのを風下へ風下へと身を避けつつ待っておる。

明朝は味噌汁が出るかもしれない。

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2006年10月21日 (土)

めだか、めだか、

「何羨録」(かせんろく) 2

くどいようだけど、先のブログ「何羨録」で、この序文末尾部分の読み方について、わたし、これを、

「あぁ、釣り人の楽しみは魚釣りそのものにあるのじゃない、利名にとらわれず、軽々と身を釣りの境地に遊ばせるにある」

と読んだ。

テレビの釣り番組や、魚釣りの本を観たり読んだりしますとね、

魚釣りのおもしろさ楽しさのことが、色々なカタチで画像化され、言葉にされ、あまりのことに目先がチラチラし、どうにも落ち着かん。

ググッとくるあの感触がたまらんとか、メーター越えの大物やったとか、何々が入れ食いやったとか言って、これでもかこれでもかと煽り立てる。魚釣りは興奮してナンボの遊びだって、いつからそんなことになってもたのや?

責任者はダレや!焚き付けたのはダレや!

ほんなもん決まっとる。釣(具)業界やないか!

釣り人らは皆、釣(具)業界に釣られとるってことやないか。

さてこそ、諸氏よ!

この踊らせられた興奮釣りと、上述でわたしがこう読んだという釣りとを、比べてみてほしい。

…と、

最近の魚釣りが、いかに忙しく、激しい、魚釣りに偏しているかってことがわりゃせんか?

「ほんなら、お前は、ようけ釣りたくはないのか?でかいのを釣りたいとは思わんのか?」って、ですか?

アッハッハ!大笑い!

ほんなもん、ワッシャも、ヤッパぎょうさん、デカイのを釣りたい!

昨今は、江戸流儀では魚は釣れん!

でもねぇ~

昔の釣が懐かしいじゃござんせんか、なぁ各々方!

めだか、めだか…、

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流れ 

年食って隠居になって気楽気楽で過ごしていると、ついつい世間の流れから外れるようだ。

…いやぁ~、ちょっとエエ格好言いすぎかな…、

以前のサラリーマン時代だって、世間の流れによう付いて行かなんだやないか! 

まぁ、そんなことはどうでもよろしい。

傍目八目ってこともある。流れの外から流れを見ると、変な流れになりつつあるのが分かるってこと。

なにがって、イジメです、イジメ、

イジメはいけないことだとか、イジメは犯罪だとか、なんだかんだとイジメが社会問題になってきたが…、

大切なことを忘れて論議されているぞ!

人間社会でイジメが無い社会なんて有り得ますか?

グループを作って生きる動物だよ人間ってのは、序列・秩序無しではやってられないですよ。動物行動学上から見て、イジメは、ある種もっとも平和的な秩序維持の手段でしょう。

勘違いしないでね。わたしイジメを良しとして言って居るのじゃない。

イジメに耐える力をつけさせることが大切だってことを言おうとしている。

そういう教育が大切であり、この方面の教育手法開発が大切だって言いたい。

時代時代に対応したイジメ耐性を子供らにつけさせなあかん。

幼児共産制のことを大人らは忘れておる。幼い時、しょっちゅう兄弟喧嘩したやないか。このことをシッカリ思い出した上で、激しすぎる喧嘩は親が止めに入るのや。

この止めに入る頃合の研究が必要だと、わたしは言っておるのや。

兄弟喧嘩したらアカン。ほんまにそうか?

兄弟は兄弟であるからこそ、同一の親を持つからこそ、親の関心をより自分の方へ向けようとして相争うのや。この人生最初の争いを悪と決めつけられて育つ大人なんて気味が悪くないか。

同年齢の者らが1学級に団子になって学ぶ学校は、ある種イジメ鍛錬の場であるってこと。先生は激しすぎるイジメの止め役であり、イジメから抜け出す力を習得させる指導者だってこと。

流れが、

イジメは悪だ、とか、イジメ撲滅とか、そりゃ間違ってはいるとは言わんが、イジメとドロボウは、浜の真砂でっせ。

イジメには、耐える力をつけねばアカン、乗り越える方法を学ばなアカン。

大人は四六時中子供らが激しすぎるイジメに走らぬよう監視し、過ぎたるは諭し、弱いやつには対向力をつけさせなあかん。

教育改革って言葉を最近よく聴くように思うが、このあたりはどうなっとるのやろ?

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2006年10月20日 (金)

「何羨録」序文末尾の一節

「嗚呼釣徒楽一釣糸外也利名軽一釣艇内也」

これ、どう読みますなねぇ~、「何羨録」の序文の一部です。

「忠臣蔵釣客伝」(講談社・長辻象平著)という小説があって、江戸時代に4千石の旗本・津軽采女が著した「何羨録」(かせんろく)から構想を得て書かれた小説らしい。

で、

冒頭の一節は、小説の中では、

「あぁ、釣徒の楽しみは一釣糸の外に無く、軽き利名は一釣艇の内に有る也」

と、読まれている。

釣り文化協会が発行した甲山五一氏の訳は、

「あぁ、釣りをする者たちの楽しみの一つは釣ることの外(ほか)にある、利益、名誉などは重要なことではない。も一つの楽しみは、釣り船の内にある」

と、読んでいる。

わたしは、

「あぁ、釣り人の楽しみは魚釣りそのものにあるのじゃない、利名にとらわれず、軽々と身を釣りの境地に遊ばせるにある」

と、読む。

序文全体からはそう読める。これ以外の読み方なんかあり得ない。

注・「何羨録」…わが国最古の魚釣りの「本」

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2006年10月19日 (木)

和光園へ行ってきた、

キヨちゃんと二人で、老人ホームへ慰問演奏に行ってきた。

キヨちゃんのおかぁさんが付き添ってくれた。

キヨちゃんも、初めてのところはおかぁさんと一緒が安心だ。でもねぇ~、おかぁさんは、確か今年80を出るはずだ。いや、ひょっとしたらもう出ておられたかな?

今日出かけた老人ホームは養護老人ホーム。皆さん自分で動けるお方ばかり。一部ケァハウスのお方もおいでだった。わたしは66。キヨちゃんはわたしより少し年下の50台だが全盲のお方。そのおかぁさんは80ウン才。キヨちゃんはおかぁさんと被災者住宅に二人住まいである。

慰問?慰問じゃない、わたしにしても、キヨちゃん親子にしても、そんな立場じゃない。

生意気言うようではあるが、一緒に生かしてもらっていると思っているだけである。

「一緒にしばらく遊びましょう」と、わたしは皆さんにご挨拶した。

キヨちゃんもまったく同じ気構えだ。自分たちの演奏をお聞かせしようなどの気持は無かった。

が、集会室に集まられたご老人たちから、リクエストがあり、キヨちゃんは「六段」を全曲演奏した。とっさの注文であったが、実に見事な演奏であった。集まっておられた約80名ほどのご老人らが、箏の生演奏に聴き惚れた。キヨちゃんは箏・三弦の名手だ。真剣に演奏する彼女の箏の音はそのままご老人らのものであった。舞台上での演奏じゃない。ご老人らとヒザが触れ合う位置でのとっさの演奏。ご老人らは息をするのも忘れたかのようであった。ある種度肝を抜かれたような静寂があった。静かに弾き終えると寸時間を置いて大きな拍手が起きた。

その後、皆さんと一緒に童謡唱歌や歌謡曲を歌い、伴奏させていただいた。皆さん大声でお歌いになった。大学生2名が研修に来られていて、可愛い女学生だったが臆することなく一緒に歌われた。午後2時前から3時半頃までの会だったが、だぁれも途中席を立つ人はいなかった。

この後、「めだか釣り」をご指導させていただいた。大好評であった。事務のお方が、昨日から餌止めをしていたそうである。メダカらは、腹が減っていたのだろうか、良く餌を追い楽しい魚釣りができた。キット生まれて初めて魚釣りをしたお方があったと思う。今後、事務室に、「めだか釣り」をさせて欲しいとの要望が度々あるのではなかろうか。そんな気がする。「めだか釣り」をするご老人らの目の色は、とてもじゃないが、老人の物ではない。あの目は少年少女の目の色だ。“目は年を取らんな”わたしはそう思った。

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今日は午後神戸市の和光園(老人ホーム)へキヨちゃんと二人で慰問演奏へ行く日。

朝から尺八を取り出してプカプカやって調子をみているが、これが玉下駄!耳の調子がやたらシャープになって、よく聞こえるようになった。

実は、昨日、どうも最近耳が遠くなっているようだと思い市民病院へ行って来た。なにせ携帯電話をいつも腰につけているが、着信音が聞こえていないようである。時々開けてみると着信記録がある。テレビも13レベルまで上げないと何を言っているのかわからない。かみさんが居たらレベル10以上には聞かせてくれんが、今は彼女は旅行中で居ないから平気で13~15にする。

と、今朝、テレビを点けたらドデカイ音が出てビックリした。

耳鼻咽喉科のDrは、

「この症状ですと、突発性難聴ということで治療に入ってもいいのですけど、既往症もおありですから、別のお薬にしましょう」とおっしゃった。若い綺麗な女医さんだった。

既往というのはかつての阪神淡路大震災の際の激務にダウンして突発性難聴になり、なぁ~んも聴こえなくなったことがあり、治療が効いて一応治りはしたが聴力はやはり元へは戻り得ていないってこと。

で、この度は水薬が出た。食後に30cc呑むが、超呑み辛い薬で、呑んだあとも吐き気がしそう。これを昨日は昼・夜の二回呑んだ。

で、今朝のテレビ音にビックリし、先ほど来の尺八朝稽古に、音が妙に冴えて聞こえ気味が悪い。

一昨日の内科受診代+昨日の耳鼻科受診代+既に23年間呑み続けている生活習慣薬代(酒のことじゃなく、高血圧・循環器系の薬)>15,000円

これだけ支払って、わたし、今朝も生きておるが、「自分らしく死ぬ」(※)ってのは、要するに薬代のことと承知したくなるこの頃だ。

※釣友・二郎ちゃんは、このたびりっぱな「本」(訳本)を出版した。

20060929_1

「自分らしく死ぬ」―延命治療がゆがめるもの―

ダニエル・カラハン著 岡村二郎訳 

発行所 (株)ぎょうせい

定価 3千円………そうです命はお高くつきます

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2006年10月18日 (水)

玄関見る

ショウの食事にはホトホト困る。

鶏のから揚げはもう食わんようになった。

チーズにもそっぽを向く。

ソーセージにはイヤ~な顔をする。

テンプラを買ってきて差し出したら、ダイはウハウハ喜ぶが、ショウはプイと横を向く。

あぁ~、わたし、

自分の飼い犬すら御し得ないって分かって、落ち込む、落ち込む。

なんで食わんのかどうしてもわからん。

ほとんどなぁ~んも食わんのに、玄関番をして、ワンワン・ワンワン頑張っとる。

どう考えても身体が悪いわけじゃなさそうだ。

気にくわないから、食わんのだってことだと思う。

思うに彼はかみさんを自分の主人と思っていて、かみさんが旅行中でストレス・ストレスってことじゃなかろうか。

ペットショップで、いつまでも買い手が付かなくて売れ残っていたのを、かみさんが見るに忍びず、連れ帰り、実家に飼って貰うべく連れて行ったが、これがまた事情があって結局わが家で飼うことになったワンである。かみさんを慕うこと、メシも食えんほどだってことみたい。

今晩は、カステラを差し出すと、氏(ショウ)は、一切れお召し上がりになった。なんとかこれで身体は持つだろう。わたしとしても、この忠犬ショウを無事かみさんが帰宅するまで介護(?)せなならんわけだ。

なんと申しましょうか、ショウ殿は玄関から目を離しません。腹が減ってフラフラ・ガリガリになっとるけれど、頑張っとる。それに引き換えダイはいつも腹いっぱい食ってダブダブに太りいつも大イビキで寝ておる。

わたし?

わたしも、ショウの後ろに並んで玄関見ておる。

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2006年10月17日 (火)

おさんど

20060929

おぬしは胃潰瘍かもしれんとのコメントをブログにいただいて、

わたし、なんぼなんでもハラが少し減ったくらいで変にシンドイのはヤバイとの思いがあるから、ヤッパ医者に診てもらった方が良いだろうと、今日、主治医の診断を受けた。

「神経的なことが原因のような気がしますが何かありましたか?」と医者。

「はぁ、かみさんが、ここしばらく家に居ない」とわたし。

側にいた看護婦さんが、

「あらまぁ~、まだ旅行中?まだ帰って来られないの?」とおもしろそうに言う。

Drが、

「3か月も独りで船に乗っていたのに、なんで? しばらく奥さん居なくても大丈夫でしょう」と言う。

で、胃薬を処方してくれた。

気になるようなら、胃カメラ呑みますか?とのことだった。

飼い犬のダイとショウだが、こやつらにはホント困る。

今日は業を煮やしてタマゴ焼きをこしらえた。写真のがそれ。わたしもやろうと思えばタマゴ焼きくらいはすぐに造れる。

タマゴを3個割って、昨日買ってきた麺つゆを垂らしてかき混ぜ、タマゴ焼き用の長方形フライパンにバターを垂らし、上手にタマゴ焼きを造った。見事なものだ。

熱くては食い難かろうから、冷蔵庫で適度に冷やし、カマボコに切って、ショウにご機嫌伺いしたら、これなら食ったる、と、食ってくれた。ヤレヤレだ、ほっとした。もちろんダイへも与えてある。与えられていないのはわたしです。へちを少しだけ味見したけれど、けっこう上手に出来ていて美味しかった。

さぁ~て、明日は彼らに何を食わしたものか?

おさんどってのは、ほんとうにたいへんだ。

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2006年10月15日 (日)

野蛮食

ひょっとしたら、なにかの病変のせいかもしれないが、腹の具合がどうもよろしくない。苦しい。どこと言って指し示すことは出来んが、ヘソを中心にして腹全体が妙にくるしい、痛いような感じもある。

昨日の朝は5時ころにご飯を三口ほど食べたが、うまくなかったのでそれ以上は食べなかった。午後2時ころにご飯を一膳食べた。夜はご飯を半膳食べた。もっと食べてもよかったのだが、ご飯がそれだけしか残っていなかった。改めて炊くのが面倒だった。

と、昨夜フトンに潜って寝ようとすると、腹全体が妙に苦しくて、こりゃいかん身体の調子がおかしくなった。…と、いささかあわてて、どうしたものかと考えるがよい思案が浮かばないから、静かに寝るに限るとまたフトンへ潜った。だが、苦しさは益々強まるばかり。

ひょっとしたら、腹が減って苦しいのではなかろうかと、思案が整理できたから、試しに水をゴクゴク呑んでみた。ご飯があれば食うのだが無いのだから仕方が無い。少し楽なったような気がした。でもすぐにまた苦しくなる。とうとうご飯を炊くことにした。で、炊いて食ったら治った。

かみさんが居たら、朝昼晩と必ずご飯を食べさせてくれるから、腹が空く間が無く、ついぞ空腹の苦しさのことを知らなかった。船の旅へ出ていたときは、なんぞシッカリ食っておかねば身体が持たんと思うから、いつもなんぞかんぞ食っていた。で、この時も空腹の苦しさは経験していない。今、自宅に居て、かみさんが旅行中で、わたしやむを得ずヤモメやっとるが、時々パソコンいじるだけで、あとは昼寝とTV観るだけだ。腹も空かないので別に我慢しようとの思いからじゃなく、めんどくさいから食わんかった。と、いつの間にか一定限度が過ぎたらしく、…ビックリするじゃないか、腹減りで苦しくなってしまったってことみたい。

いや、ひょっとしたら、腹減りだけじゃなく、なんぞ病気があるのかもわからんが、ご飯を食ったら治るからはやはり空腹による身体異変じゃなかろうか。

で、今朝は、病変が出る前に、5時に、即席ラーメンを湯がいてタマゴをひとつ加えて食ったが、今、10時半だけど、またシンドクなってきた。腹の辺りが妙に苦しくなってきた。ご飯は昨日炊いたのがまだ沢山ある。これから食べようと思う。ネチャネチャしてあまり食いたくはないのだが…、タマゴを割って、これに麺ツユを色がつくほどに垂らして、かき混ぜて、ご飯をブッコンで更にかき回して、ホイデ、食うと美味いのだか、麺ツユがもう無くなってしまったから、今回は、ソースと、マヨネーズでかき回してみようと思う。

いつもいつもご馳走ばっかし食っとるから、たまにはこういうのって、野蛮でおもしろいや!

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2006年10月13日 (金)

尺八でごめんなさい

ブログにわたしの尺八演奏を入れたら、どなたがお聴きになるのか、好んでこれを聴かれるお方があるようだ。ブログ右最下欄に赤い色のがあるが、これからそのことがわかる。アクセス順位検索ツールだ。

尺八音をブログに始めて載せたのは先月の9月22日。この数日後に順位検索を登録したのだが、8500番台だった。それがスルスルあがって今は4000番台になった。

わたしが尺八音を入れたのは、面白がってのことである。CDやテレビを、わたしはパソコンで観たり聴いたりしているが、試しに自分の尺八音をパソコンから聴いてみたくなったのである。マニュアルを解きホドイテ、なんとか音が出るようになり、おもしろがって童謡唱歌を吹いてみた。

聴いてみて、あまりにもヘタクソなのに呆れビックリしたが、別段お人に聴かれて困るようなものでもないからホッタラカシニしていた。順位検索登録も、同様に単なる興味本位から登録したが、これにこだわる気持ちはない。

尺八は、ご存知のお方もあろうが、昔は楽器と言うよりは仏具の一種のような位置づけであった。音程はお経と同じ音程である。あぁ、お経は声明といって、本来音程にそって歌うように節を付けて唱えます。ご詠歌とか和讃とかがそれですよね。あの節と拍子が尺八本来のものです。ってことは、ひたすらお経を唱えるような心地で吹くべしってことになる。音楽であって音楽でないという面がある。言い訳になりますが、音楽的にはいくら調子っぱずれでもヘッチャラなわけだ。実は、ヘタクソってことなのだけどね。しかしねぇ~、なんで、わたしの尺八を聴くの?アッハッハ!じゃぁ~、ちょっと、気が向いたから、吹いてみようかな、聴かれて困ることなんかなぁ~んもないし、聴いたら、勘が狂うよ、気持ちがわ~るくなっても、わしゃ責任取れませんので、ゴメンネ!

「track0011507.wma」をダウンロード

「花かげ」

十五夜お月さま ひとりぼち

桜吹雪の 花かげに

花嫁姿の お姉さま

車にゆられて ゆきました

十五夜お月さま 見てたでしょう

桜吹雪の 花かげに

花嫁姿の お姉さま

お別れおしんで 泣きました

「夕焼け小やけ」

夕焼け小やけで 日が暮れて

山のお寺の 鐘がなる

お手々つないで みな帰えろ

からすと一緒に 帰りましょ

子供が帰った あとからは

円い大きな お月さま

小鳥がゆめを 見るころは

空にはきらきら 金の星

「赤とんぼ」

夕やけこやけの 赤とんぼ

おわれみたのは いつの日か

十五でねぇやは 嫁にゆき

お里のたよりも たえはてた

夕焼けこやけの 赤とんぼ

とまっているよ さおの先

「紅葉」

秋の夕日に 照る山もみじ

濃いもうすいも 数あるなかに

松をいろどる かえでやつたは

山のふもとのすそもよう

谷の流れに 散り咲くもみじ

波にゆられて 離れてよって

赤や黄色の 色さまざまに

水の上にも 織るにしき

「旅愁」

ふけゆく秋の夜 旅の空の

わびしき思いに ひとり悩む

恋いしや故郷 なつかし父母

夢路にたどるは さとの家路

窓うつあらしに 夢も破れ

はるけき彼方に こころ迷う

恋いしや故郷 なつかし父母

思いに浮かぶは 森のこずえ

「叱られて」

しかられて しかられて

あの子は町まで お使いに

この子はぼうやを ねんねしな

夕べさみしい 村はずれ

コンときつねが なきゃせぬか

しかられて しかられて

口には出さねど 目になみだ

ふたりのお里は あの山を

越えてあなたの 花のむら

ほんに花見は いつのこと

「影を慕いて」

まぼろしの 影を慕いて 雨に日に

月にやるせぬ わが想い

包めば燃ゆる 胸の火に

身はこがれつつ しのび泣く

わびしさよ せめていたみの なぐさめに

ギターをとりて つまびけば

どこまで時雨 ゆく秋ぞ

トレモノ詫し 身は悲し

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2006年10月12日 (木)

釣り師の立場

北朝鮮のことですけど、わたし勉強不足でよくわかりませんが、アサリ・マツタケが沢山輸入されていたのですよね。わたしアサリは大好物だからしょっちゅう食べていました。食べてはいけなかったのかな?知らぬ間に国益に反する行為をしていたってことになるのかな?

魚釣りのエサですけど、北朝鮮産のものが多いようですね、“北朝鮮からの直輸入だから新鮮”なんてうたい文句で商売していた向きもあるみたい。青虫とかモエビとか、本虫も北朝鮮産が多いらしい。

ということは、魚釣りを楽しむっていう行為は、北朝鮮からの釣り餌輸入を促すことになとったわけや。あぁ~悪いことしとったのやぁ~、以前から、うすうすは北朝鮮産の餌が多いようだって知っていたけれど、ほんなもんどういうことないやろ、と、おもっとった。が、しかし、これからはアオムシが値上がりしたら、これは困りまっせ!

政府は全面輸入禁止措置をとるにつけ、国内関連企業への影響を最小限にする手立てを考えているらしい。そのなかに、釣り人への影響のこともあるのやろか?

そんなもん、あるはずないよなぁ~、でもね、最終消費者の購買意欲のあり様こそが、何事によらずもっとも大切だってことを知らなあかんど。教育基本法の見直しがどうのこうの言うているが、詰まるところは好ましい消費者を育てるってことだからな。平和的釣り師がいっぱい居る社会ってのは、スンバラスイと思うがいかがなものかねぇ~、

いついつ魚釣りに行くと役場へ届け出たら、「はいどうぞ」って、補助金が出たりしたら、…バカな! なんでそういうしょうもないことこと考えるのや! 

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2006年10月10日 (火)

コップ水

お百姓さんの、…あぁ~この百姓っていう言い方は差別用語だってねぇ~、農家のお方って言わなあかんらしい、

言い換えます、

近所の農家のバァサンが、…アッ!このバァサンってのもひょっとしたら、使ってはいけない言葉ですか?

言い換えます、

ご近所のご農家の古いほうのおかみさんが、やってこられて、持ちお山で採れたお栗と、お畑で収穫したばかりのお新米を、「少しですがどうど…」ってたくさんお持ちになりました。最近、わたし、デンデンお海のお魚をお届けできていませんから、恐縮しごぐです。畏まって頂戴しました。

あぁ~舌を噛みそう…、ヤァ~メタ、こんな真似オラヤァ~メタ…

新米ってのは、茶色っぽく、砂みたいな感じですな。玄米ってやつです。モミっていう衣を着ていたけれど、夏のカンカン照りはモミを射通して中の米粒をも日焼けさせたって感じだよ。

さて、さて、この玄米を食う際は“搗く(つく)”ってことをする。5分搗きだとか7分搗きだとかにする、真っ白けにするには十分搗きにするとよろしい。搗きあがったら、“研ぐ”(とぐ)ってことをする。そして水加減を調整して炊くと食えるようになる。

一方、栗は、湯がいて皮を剥き、ほじりだして食う。

さっそく新米も食ってみたいし、栗も食いたい、が、しかし、上に述べたように、食うに至るまでには様々な作業が前に立ちはだかっていて、これが超難儀だ。

で、まだ、なぁ~んも食わずに、今朝は、また即席ラーメン湯がいて食った。

だって、わが家に古くから居るお手伝いさんは、いや間違った、おかみさんは、今、タクラマカン砂漠あたりをほっつき歩いていて、わたしはわが家に独り留守番している。このところ寂し~くヤモメ暮らしをしておる。

ボートの独り旅とは違って、自宅に居るのだから不便なことはなぁ~ンもなくて、なにも即席ラーメンばかり好んで食う必要もないのだけれど、そう、新米も、クリもあるのだけれど、とにかくめんどくさいのが大嫌いだから即席ラーメンに行き着く。

とうとう、今朝から腹具合がおかしくなった。

ボート旅の時は、知らず知らずの間に、身体を動かすことが多かった。が、自宅に居るとただジットしているだけになって、運動不足になり、これが腹具合にも悪影響を与えているように思われる。あぁ~難儀だ。もう昼時になったが、腹も空かないし、なにか食うのもめんどうである、水道水をコップに受けて一杯呑めば事足りるかも。

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2006年10月 8日 (日)

ほんの少し遅すぎたかな、

長年尺八を吹いているが、いまだに譜面を見ないと宙ではよう吹かん。

三弦と琴の師匠キヨちゃんはそうじゃなくて、自分が知っている歌ならなんでもありだ。童謡唱歌はもちろん、歌謡曲でもなんでも、すこし口ずさむことが出来る曲なら即座に弾くことが出来る。耳から入った曲が頭の中で瞬時に音符になって、指先が勝手に動くって感じ。全盲なのだけれど、すっごくよく見えるみたい。

わたし?

譜面があれば、なんとか解読しつつ吹くことが出来る。だけど、譜面がないと、いくら自分が自由に歌える曲でも、吹くことがデケン。歌詞を瞬時に尺八譜面に翻訳するって訓練がデンデンできておらん。でもね、歌声を聴いて、…幾度も幾度も聴かないとダメだけれど…、なんとかかんとか尺八譜面に写し取ることは出来る。

キヨちゃんは、歌う人の音程に合わせて、瞬時に音程を上下しながら伴奏するのだよねぇ~、天才ですな!出だしの音程をドからにしたり、レからにしたり、ミでも、ファでも、なんでもありだ。

で、彼女が、わたしのことを、なんで、自分で音の調整が…出だしの音の音階の調整が、デケンの?って不思議そうな顔で見る。音がわかって尺八吹いているのじゃなかったの?て言うている感じがする。全盲のお方だけれど、彼女が全盲だなんてすっかりわすれていて、彼女がそういう目でわたしを見たって感じがする。

わたし、たまたま目明きであって、譜面を目で追うことができるから、いつのまにか譜面がないと、なぁ~もよう吹かんようになってもたんとちゃうか。

で、聞き知っている曲を宙で吹く稽古を始めた。音を探り探り吹くから曲が途絶えて途絶えてとてもじゃないが曲にならん。自分がいかに音に鈍感であったかがよ~くわかる。

ただ、言い訳になるが、尺八は、同じ指遣いで、息遣いだけを変えてオクターブ違いの音をだす。三弦や琴は、爪弾く糸そのものが違ったり、つま先で押さえる位置が違ったりする。同じ指遣いで吹き分けるより、指の持って行く場所が違う方が、かえって迷わなくて演奏しやすいような気がする。が、逆かもわからん。

ひとつハッキリしていることがある。ヤッパ、音そのものが、身体に根付いておらんから、デケンのやろうと思う。これデッタイに間違いない。今、何とか音を身体にしみこませようとガンバッとるが、約40年遅すぎた試みのような気がする。

JMXどん、このあたりのコツがあったら、教えてくだされ <(_ _)>

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ギブアップ

実際の旅(A)と、記憶の上の旅(B)との間には、時間と著者の記憶力が介在し、

A=B

とは、なかなかなし難いってことがある。

記憶ってのは実にやっかいで、思い込みや、錯覚が紛れ込んでいるから、これらが悪さをする。ましてや時間経過とともに変化するからなおさらだ。

で、どうするか?

写真です。写真は、時間や著者の記憶力とは無関係に、Aを映している。

だが、問題は、その期待に応え得る写真が撮れているかどうかってこと、

わたし、できるだけたくさん写真を撮っておこうと努めたけれど、結果は、必要な写真はほとんどなぁ~んも撮れていなかった。あの時の写真があればなぁ~と、残念で残念でたまらん。なぜ、あれを、あの様子を撮っておかなかったのだろう?なんでやろ?

とてもおもしろく楽しかったことがあったとする。それを後日今一度あの時の様子をしっかり思い出したいと思って、あぁ~あの時の写真があればなぁ~と思う。

でもね、あの時、興が盛り上がっていたあの時、カメラ取り出して撮影する気にはなれなんだですよ。興醒めになるような気がしたもんね。カメラは四六時中持ち歩いていたけれど、常に撮っておこうと心がけたけれど、なんというか変なギャップがあって、撮りきれなんだ。アァ残念だ。

思い込みや、錯覚のことだけれど、

この写真撮影についても、思い込みや、錯覚がありますな。撮っておこうとの思いが強かった分、写真を撮っておいたような気になってしまっている。撮った写真のなかからその1枚を探し出そうとする。探しても探しても出てこない。あぁ~撮ったと思っていただけだったのだ、実際は撮ってなかったのだ、と、あきらめる。で、しかたなしに、文字化しようとがんばるが、だめですなぁ~もうギブアップ。

あのね、周航記の執筆ってのは、ギブアップ、ギブアップの連続でっせ。

でもねぇ~、考えてみれば、あの旅は、ギブアップ、ギブアップの連続のなかで、かろうじて生き延びて帰りついた旅でもあった。

似たような心地のなかに居るってことでもあるのかなぁ。

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2006年10月 6日 (金)

今夜はワイン

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今日は中秋の名月の日らしい。

わが家の今夜の御馳走だよ。これ、なんだか判るかな?

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2006年10月 5日 (木)

ドキッ! 2

インターネットができなかったら、もし、パソコンをようさわらんかったら…、

出会うことがなかったであろう方々とのお付き合いが増える一方である。

ごく表面的な薄い付き合いがほとんどだけれど…。

プライバシーってのはなんだろうね?

秘密秘密、内緒内緒、知ってほォ~しくないこと。

わたしにそんなことあったかな?

隠さなあかんようなヤバイこと、なぁ~んもありゃせん!

わたし、ホームページのプロフィールに自分をさらけ出しているし、日々更新のブログにもありのままを綴っておる。

…と、結果どうなるか?

お付き合いはあるけれど、

わたしは、その人のことを、ほとんどなぁ~んも知らないのに、

そのお方は、わたしのことを日々のブログやなんぞで、よォ~くご存知だってことになる。

たまたま、この二人が出逢ったとする。

面と向かい合うのは初めてだから、それなりに初対面の挨拶をかわす。

で、歓談することになるが…、

わたしはしんどうてかなわん。このお方は、本当はどんなお人だろうと、ずっとそのことが気になって、なかなかうちとけにくい。

よそよそしい態度で接するわけにもいかんから、中途半端なことバッカ言って誤魔化し、なんとかそのお方の正体知ろうとするがなかなかこれがうまくいった試しがない。

とうとう業を煮やして、だいぶ後になってから、

「ほいであんたダレ?なんというハンドルネーム?」と、お尋ねする。

でも、これって出来ないよ!思い切ってお尋ねしたいのは山々海々だけど、実際、そんな質問できますか?わたし、気が弱いから、未だ、これ、したことない。

ハンドルネーム聞いても、なお、思い出せないことがあるよ。

「いついつ頃、カクカクのメールをさしあげたことのある○○です」と自己紹介していただければ思い出しやすいが、ハンドルネームだけでは、個々の過去メールとはなかなか符合できん。

あとで人違いしていたことに気がついて、ドキッ!とすること再々だ。

ボケが進みつつある。対人恐怖症になりそう。

ホイデ…、あんたダレ?

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2006年10月 3日 (火)

ドキッ!

パソコンがあるていど操作できるってのは喜んでいいのか悪いのか?

最近、自分の頭が、変に単純になったように思う。

よく言えば論理的になったってことかも知れないが…、

だが、だが、大いに不安だし、おもしろくない。

マニュアル読んで、書いてある通りに、決められたようにやるってことに、不自然さを感じなくなった。

言いつけにすなおに従って、これが変な快感につながったりする。

なっ!書いてあるとおりにちゃんとやれたやないけぇ~と、得意がるって、おまえはアホちゃうか?

右向け⇒ハイ 左向け⇒ハイ 

ハイ、ハイ、ハイ…、

おもろない!

なんか変だ、いつの間に、だれかに、好き放題させて、平気になってもたんやろ?

問題は、

パソコン前に座っているときだけが、そうなのではないってこと、

だれかに、あぁ~せい、こう~せい、と、言われた方が安心するようになり、その指示に疑いを待たなくなるのじゃないかってこと。

自分を失うことに平気になり、あげくは生きる意味を見失うことになりゃせんか。

尺八演奏をブログに載せようとやってみたら、すんなりできてしまった。

聴いてみたら、なんやこれ!こんなに下手やったのか!と、ビックリした。

わたし、自分だけの独奏を録音し、聴きなおしたのは初めてだった。

A・指示通り操作したらブログから音が出た ⇔ B・ビックリの下手だった

AはITの世界、Bは生身の世界、

ドキッ!

そして、ふわぁ~と漠々たる不安に突き当たった。

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ほんなもん知るか 3

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3葉の写真を並べます。

わが家で、今、撮影したものばかり。

軒下のメダカ、素人采園のナス、敷地隅に追いやられたフェンダー、

秋晴れです。

光が美しいと思った、で、撮ってみた。

フェンダーが可哀相じゃないかって?

次回は、いつお呼びが掛りますかねぇ~、置くところがなくてねぇ~、潮風が、波が、恋しいかも…、

ほんなもん知るか!って?

だれが、そんな薄情な!

責任者出て来い!

ワイが、ドツイたる、シバイたる!

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2006年10月 2日 (月)

ほんなもん知るか 2

と、いうわけで、前稿では、

ブログの穴を埋め→誤字脱字を直し→ハード:ソフト=X:Yに取り組む中にあって、

⇒わたしの気持ちは、X<Y、だが、

⇒誰かに読んでもらおうとするからは、こんなことでよろしいのか?

に、ついて考えた。

要は、“わたし”と⇔“著者たるわたし”との、書き分けじゃないかと思う。

“読みやすい”ものでなければどうしようもないってこともある。

「本」は、読者に読まれて新たな命を得、著者の思いを越えて生きる、ってことが言われる。

「本」に、生きる“フリーハンド”を与えること、これが大切じゃないかと思う。

今一度、わたしは、自分を殺してみようと思う。

「本」を創るって、ホントおもしろい遊びじゃないかと思う。

自在にタイムスリップすることができるし、またそうでなけりゃ、過去・現代・未来を語ることなど出来はしないのだから。

旅行記、それは“過去”の経験を“今”語ることではあるけれど、その“今”たるや、今日読む“今”があり、明日読めば明日の“今”になり、ずっと将来に読む旅行記はその時点での“今”を生きることになりゃせんか?

「本」の命、“フリーハンド”のことを思う。

このためなら、わたしは、自分を殺してもかまわない。

可能な限り形容詞を削り、自分の気持ちの突出を抑え、場面場面を斜に切って、断面観察に徹してみようと思う。

気合を入れなきゃならんぞ。想いは遠く、たどる歩みはおぼつかない。

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2006年10月 1日 (日)

ほんなもん知るか!

1.あの旅を完全に思い出すってことは、今が、あのときだってことであり、あの時は今だってことじゃないか。日を追って旅の記録を書き続ける間に、あの旅の日と今日とが急接近し夢と現(うつつ)がこんがらがってきた。今朝何を食べたかすら、もうわらんのに、3か月も4か月も前のあの日の朝のこげメシを、今食いつつあるような気がしたりする。なんじゃこりゃ、タイムスリップか?今はいつなんや?

2.写真をたくさん撮った。パンフレットや案内図など等ゴチャゴチャ持ち帰っている。それらは、パット観にはバラバラだが、順にならべて当時書き綴ったブログに当てはめたりする間に、急に立ち上がり自己主張をはじめる。

旅行記ってなんだろう?

ハード面とソフト面を上の要領で分けて考える。

1.は、ハード面、歩いた道順、航行した航程、時々に食った美味い物の品名など等。

2.は、ソフト面、その時々に感じたことの記録、寂しかったとか、ビックリしたとか、どのように美味しかったかとか、とか・とか・とか…。

旅行記を記す場合、ハード:ソフト=1:1 で、記載するのが良いのかどうか?

もし、さらに良い比率があればそれが知りたい。

1.ハード面は、だれでも追従し真似できる道筋・道順ってことだ。旅を終えて後、日が経つほどに、記憶は“薄れ”→粗雑になる。

2.ソフト面は、その時どう感じたかってことだから、どうしても個人差が出るに違いない。旅を終えて後、日が経つほどに、記憶は“偏り”→誤解・偏見のかたまりになる。

列島周航から帰ったのは8月1日だった。今日は10月1日。もう2か月経った。

旅行記執筆に手をつけたのは9月10日過ぎだ。8月中はどうしてよいかさっぱりわかず、ぼやぁ~としていた。これじゃイカン、なにか始めなければ忘れてしまうと、気持ちにあせりが出て、無理やり始めたってのが実態だ。

で、はじめて自分のブログを通し読んだ。ムチャクチャですな。よくもまぁこんな支離滅裂なことを書いたものだ、誤字脱字だらけじゃないか、呆れた!

最初の作業は、ブログでは言葉足らずだったところを補い支離滅裂をほどくこと、と、誤字脱字の修正だった。実は、昨日までこの作業をやっていた。そして又帰港した。

今日から、ハード:ソフト=X:Y の、作業を始めようと思う。

X:Y、を、どのように設定したらよかろうか?

X:Y=2:8 程度が、わたしには好みだ。が、これではだぁ~れも目を通してくれないと思う。読者は言うに違いない、

「お前が、どない感じたか、思ったかは、俺ら関係ない。その港はどの辺りに艇を着けたのや、写真はないのかいな?」

著者の偏見の入っていない事実列挙の旅行記こそが求められるのじゃないか?

だがねぇ~、わたし器用じゃない。自分を殺してもの言うのはサラリーマン時代だけのことにしようと決めている。そう思い当たって気が楽になった。

読者?

ほんなもん知るか!

好きなように書いてみよう。…で、「本」になるか?

ほんなもん知るか!

なるわけ無いワイ、どこ探しても、そんな金ないわい!

偏狭なるジジイ一匹、何を思って生きん!

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