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2007年10月14日 (日)

日々趣味

なんと言いましょうか…、

どうにもならぬが、それはまっすぐのような気がして、それがスッと見えたような…、イイヤあれは錯覚だったかなと…、命の深遠さと申しましょうか、ぜんぶ投げ出してなおなお足らぬ敬虔な心地と申しましょうか…

フッとそんな曰く言いがたい気持ちがしたですよ、「三谷曲」を火葬場の碑の前で吹いていて…、

自宅へ戻って、また吹き直しましたが、もはやその“何か”にとらわれてしまっていて、“そのこと”に束縛されていて、あの曰く言いがたい澄んだ心地は何処へ行ったのやらさっぱりわからん。

またまた、下手な三谷を吹いていますがね、

それがその~、こうやって吹いているのも悪くはないなぁ~っていう思いには知らぬ間に到達し得たと思ったりしていますよ。

上手下手じゃないですよ。もうどうでもエエですよ。

明暗尺八はオモロイですなぁ~、

この歳になって自分はよい趣味を得ていると、ありがたく思っていますよ。

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コメント

「曰く言いがたい澄んだ心地」は、集中していらっしゃったんだと思うのです。
集中できているから、吹くべき音が見えていて、吹かれた音もしっかり聞こえている。
「何か」はその結果。だから、「何か」の再現をめざすのではなくて、集中の深さの再現をめざすという注意の方向もあるかと思うのですが、いかがでしょうか。

よく、プロは何度でも全く同じ演奏ができなくてはいけない、などと言われますが、これは表面的な形の上での技術的な話であって、実際には同じ演奏なんてある筈はないし、あってはいけないことだと思うのです。
毎回、奏者の気分は違うし、体調も違う。環境だって、まったく同じだなんていうことはあり得ないですね。そうすると、そこに現れてくる「何か」も時によって、様々な違った姿を見せるのは当然のことです。それが、音楽が生きているということではないでしょうか。
勿論これは、深い集中に担保されて初めて言えることです。

少なくとも私にとって重要だと思われるのは、集中力というのは、鍛錬によって育てることができるものだということです。肉体的な能力は年齢の制限を受けますが、集中力は何歳になっても伸ばすことが出来る。

そのためには、難しい曲を吹き通すとか、回数を目的として何百回吹くといった、集中しないで吹く理由付けになるような練習は避けて、たとえ短い時間であっても、音を出す時には集中するように習慣づけることが必要だろうと思っています。
集中しないでいくら吹いても、自分の欠点は聞こえてこないし、目指すべき方向も見えて来ません。何の収穫も無く、一生同じ欠点と付き合うことになってしまいます。
魚のいないところで何時間釣り針をたらしても、魚は釣れないということでしょうか。
そういう釣りを楽しむという趣味もあるかとは思いますが。

私は、少しづつでも先に進みたいです。半歩を踏み出しただけでも、音楽は想像を超えた世界を開示してくれるからです。上手とか下手ということは、私もどうでも良いです。

投稿: ペリー | 2007年10月17日 (水) 05時59分

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