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2007年10月24日 (水)

父の苦悩

今月末(今日から一週間後)父の十三忌法要を執り行う。遺品はあらかた整理し終えているが「惺窩先生と細川の荘」と題する小冊子が数冊残してあった。父が著しただた1冊の本だ。父が、三木の里、ここ細川の中学に勤務していたとき、校区内の旧家の蔵をめぐり歩き、古文書を見つけ整理したものだ。非売品。ガリ版刷りの本。わたしの手元に置いておいてもゴミ同然。で、たった今、三木市の図書館へ納めさせてもらった。郷土資料の内に加えましょうということだった。

残余の遺品整理のなかで、思わぬものを見つけた。これも小冊子で「長寿者に告ぐ」副題が「老人の生きる道」。パラパラ食ってみると、隠居という言葉・文字はこの世から抹殺すべきだ、てなことが書いてある。どうやら縁戚関係にある某爺さん(故人)の著物らしい。

思いもかけなかったのは、その本の表紙に鉛筆で「大阪尺八森安」と書き込まれている。

あの有名な明暗尺八の森安氏だろうか?「大阪尺八森安」とあるからはそうに違いない。

森安氏はわたしの最初の明暗指導の師だ。40年ほど昔になるがサシの初歩を少し習ったことがある。父と、森安氏との間で、どういう付き合いがあったのだろう。

他にも雑多な書き物がある。法要を終えたら処分しようと思う。

パラパラ拾い読みして、ハタと気付いたことがある。

今更ながらのことでもあるが、父は、私のことを、心底“不肖の息子”だと思っていたようだ。父が生前わたしを人に紹介する際はいつも「わたしの気違い息子だ」とか「バカ息子だが」とか言っていたが、あれは本心から出た言葉だったみたい。しょうがないよなぁ~、残っている父の書き物を見ても、わたしには理解が届かないものばかりだ。

父は、晩年亡くなるほぼ直前に、家計図のようなものを書き残している。それを仏壇から取り出し、書き込まれている人名を数えた。中には間違いもあるとは思うが400名近い人名が記されている。生前、父がコレを一気に書いたのをわたしは見知っている。

遺品中に枕のような分厚い辞典類が数冊あって、わたし使っているが、いずれも3千ページ近い書物ながら、どのページも父の書き込みがある。

父は、不肖の息子を持って、ふしあわせぇ~な気分でみまかったように思われる。

なにせ、わたしは、すっごく物覚えが悪く、忘れっぽく、世渡り下手でボ~としている。

十三回忌を迎える今になって、ようやく父の苦悩に気がついたのである。

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コメント

森安師のお名前を波平さんのブログで拝見するとは・・師は嘗て私が関学の学生の時に同級生の大阪市大の倉橋義雄君と古典本曲の講習会を企画した際、倉橋君の父君容堂師とともにお世話になった先生です。その企画は半年余り数回で終わりましたが両先生の飄々としたお人柄が未だに記憶として残っております。あれから40年近く波平さんとこうして森安師の事が話題になるとは本当に縁とは不思議なものです。

投稿: ワンJ | 2007年10月24日 (水) 22時09分

惺窩というと安土桃山時代の儒学者ですが細川荘の生まれだったのですね。
臨済宗相国寺派の大本山で何やら出世してから、仏教は「仁種を絶ち義理を滅す」と言って還俗したと辞書にありました。
武士道という言葉が適当かどうかは分かりませんが、当時、強盗や人さらいが当たり前だったなかで戦国大名に道徳的秩序を説いたわけです。

安土桃山時代は、本曲の揺籃期だと私は思っているんです。
当事は、一節切、三節切、根節のある尺八、もしかしたら、指孔の下に最低音の孔が追加されている尺八もありそう、など楽器の規格が多様です。
楽器は演奏される曲に合わせて改造されるということを考えると、それらの笛で吹かれた曲も多様であろう。明からは福建経由で目新しい文物、笛や曲を持って中国人が逃げてくる。これらが整理されたり変化したりしながら、本曲の核の部分が浮かび上がって来たに違いない。

この頃、虚無僧が登場してきたのですから、ことさら言うようなことでもありませんんが、この、本曲が生まれようとする時代の精神的な背景を知るうえでも、惺窩は面白いかもしれませんね。

しかし私など、惺窩を読むなら陸王朱を読んだほうが良いと思ってしまう。効率主義というか、自分の教養の薄っぺらさがちょっと情け無いです。

投稿: ペリー | 2007年10月25日 (木) 07時30分

ワンJさん、
森安師ご自宅へ何度か通いましたよ。調子とサシを少し手ほどきしてもらいました。
4年ほど前、NHKテレビの番組で「めだか釣り」の放映があり、わたし出演しましたが、あれは東京の六義園での収録だったが、その庭園で、番組のバック音楽用に、わたし調子を吹きました。今から思うと冷や汗ものですよね。でも、森安師の指導があって出来たわけだ。出来たと思っていたわけだ、あぁ~恥ずかしい!!全国放送だったですよ、

ぺりーさん、
父は、当時学校で「公民」という科目の教師だったようだ。儒学の流れに全身で浸っていた。敗戦になって、やはり教壇に立ったが、ナニを教えていいのか途方にくれ、教壇でハラハラ涙を出して泣いたらしい。当時の生徒がわたしの友人に居ましてね、「お前の親父は黒板の前で泣いとった」と言う。
父は、当時、猛烈な勢いで新たな民法を、憲法を勉強した形跡がある。そして、ハタと本を閉じた。以後はゼンゼン勉強しなかった。そのまま息子の不出来を哀しみながら年老い、死んじゃった。

投稿: 波平 | 2007年10月25日 (木) 08時26分

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