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2007年11月10日 (土)

「美仙」に替えました

好きで吹くだけの趣味の尺八だから、それが音楽かどうかもあまり意識していなくて、とにかくオタオタした音や、迷いが感じられる音は嫌で、スカッと吹きたいだけのことなのだが、

幾度も幾度も同じ本曲を吹いていると、自然と慣れが出てきて、この慣れの中で知らず知らずの間に自分なりの形ができるみたいだ、

曲の流れには、表・裏・表・裏の関係が必要なように思われて、そう思って吹く際に強弱をつけると、曲が生きてきたのでビックリしたりする、

この表・裏の関係は、右・左の関係に変化したり、単に強・弱であったり、主従であったり、修飾音扱いであったり、軽く浮いた音であったり、あるいは遅速であったりするが…、

要は、単純・平板じゃなく、生きた流れ(音)であろうとすれば、変化があって当然なわけで…、

おなじフレーズが明暗曲には多いのだよねぇ~、

明暗曲は概ねどの曲も単純なわけだ、

どのような気持ちで吹いても、それなりに吹けるわけだ、

まるで能面だね…、

この能面どう生かそうか!

尺八を鳴らすこと、律を正しく…と、これに力を取られてしまって、肝心の曲を吹くのを忘れてしまっては勿体無い、

で、昨日から、使用する竹を、「火吹き」から「美仙」に替えた。わたしはこの竹を、二十歳代半ばから吹いているからなぁ~、慣れきっておるわけですよ。

でもねぇ~、

今、「美仙」を吹くと、以前とは違った音が出る。以前の音ではない、依然とはまったく別の音になっている。不思議ですなぁ~、

息が違っているのですよね。唇の形も違ってきている。

おもしろいですねぇ~、

「美仙」の音をアップしてみようかな。

年末まで、音源アップはしないつもりだったけれど、「美仙」「美仙」と書き連ねるからは、音も聴いてみてもらいたいからなぁ~、

明日か、明後日には、試みてみようかな、

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コメント

退屈ということ、大事だと思うんですよ。
鮮明な意識でもって何かを見てやろうと言うのではなくて、退屈してぼおっと眺めていると、景色が匂いや手触りや温度をともなって心に食い込んでくることってあるじゃないですか。
クラシック音楽でも、所謂名曲って結構退屈な曲が多い。退屈にどっぷり浸っているとその先に開けてくるものがあって、それがかけがえの無いものだったりするんです。
本曲というのは、およそ音楽の中でもっとも退屈な音楽。私はおそらくそこに惹かれているんだろうと思うんです。

「守破離」っていう考えかたがありますよね。
型を「守」る。型が身に付いて自在に「破」る。型からも、自在に操ることからも「離」れる。
これは「真行草」、楷書、行書、草書にも対応した発想でしょうか。
そこで対山の明暗本曲は、基本的には楷書のような気がするんです。真法流の素朴で田舎びた気儘な雰囲気や琴古流の遊芸的技巧的な性格に対して格式のある立派で厳かな式楽を目指したのではないか。
想像です。良く知らないし、根拠も乏しいのですが、何となくそういうところに良さがあるような気がするんです。

そうすると、できるだけ単調に堂々と、みじろぎしないで吹く。聞く人があれば、せいぜい退屈させてやろうというような吹き方があっても良いような気がします。
私はそういうのが好きなんです。ちょっと変かも知れませんが。

楽器の話ですが、どのようなタイプの尺八でも、同じ息、同じ吹き方が良いんじゃないかって、現時点では思っています。
私は地無しで尺八を始めたせいか、地無しの方が吹き易かったんですが、この春くらいから、地盛り管でも特に息を細くしたりしないで普通に吹いた方が、自分の好みの鳴り方をしてくれるようになってきました。
まだ、確信には至りませんが、自分の音楽ですから楽器には左右されないのが当たり前のような気がしています。逆に言うと、どのような楽器でも鳴るような吹き方が、もっとも自由に表現力を発揮できる吹き方なのだろうと。

投稿: ペリー | 2007年11月11日 (日) 07時55分

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