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2007年11月20日 (火)

なんだかなぁ~

96の母が亡くなって落ち込んでいる67の息子って気味が悪いですよね。

誰のこっちゃ?

わたしじゃないよ、わたしはもうずっと昔に親離れしていて、ヤレヤレって感じはあるが、落ち込んだりはしていません。

だげど、

世代が完全に交代したって実感はありますね。昔と今との境界をたった今越えたのだと思ったなぁ~。

葬儀の日に初七日法事も済ませたが、東京から孫や曾孫も来ていたので、このときしか話す機会も無いだろうと思い、母の生き様を少し皆に話して聞かせた。

母はけっこう波乱に満ちた人生であった。

田舎の随分裕福な旧家で生まれた末っ子である。姉が三人いて、長姉の嫁ぎ先に子がなく、夫婦養子に出された。長姉の夫の弟がお相手だった。この縁組は長姉の早世があって解消し、幼い二人はそれぞれの実家へ戻ったが、二人は狭い田舎の親戚同士でもあり、以後、幼友達として終生付き合いがあった。氏はすでにお亡くなりになっているが講道館柔道の重鎮で10段の栄位に進まれた方である。氏は終生独身だった。母はこれを苦にしていたふしがある。

実家の没落があり、父との劇的出会いがあり、あれこれのことがあった。

そして今は位牌になった。

いきなり魚釣りの話で恐縮だが、

魚釣りほど“今”を生きる生き様は他にないのではないかと思われてならん。

“今か今か”と魚が食いつくのを待ち焦がれつつ、“今”を生きるのが魚釣りである。

今をシッカリ自覚しつつ生きるってのは、今を生かす要諦である。釣禅とでも言おうか。魚釣りは人生を託すにかなっている。

が、しかし、これには常にアクティブな精神が必要だ。

決して落ち込んでいるわけじゃない。

が、なんだかシンドクて海へ出る気がしないのである。

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